Hallelujah-An Animist Version〜ChatGPTと深い会話をして、なんと涙を流す!(笑)
- akiyamabkk

- 5月28日
- 読了時間: 11分
更新日:5月31日
一応、こういう断り書きをつけておいた。
I am not against monotheistic religions, though I don’t believe in them. In this cruel world, people should be free to believe whatever brings them comfort.
I don’t believe I’ll be reborn as a moth or butterfly and meet my loved ones again, but the notion somehow brings me peace.
This is a tribute to my sister, who passed away years ago.
Note: In Japanese mythology, it was Susanoo’s father who visited the underworld. Here, I intentionally merged the roles for poetic effect, as one might do in a film adaptation.
イザナミに会いに冥界に行ったのは、スサノオではなくイザナギにだが、「地団駄踏んでなき悲しむ」のはスサノオなので、二人のキャラクターを一人にした。「映画の脚色などではよくあること」と苦しい言い訳をしている。
英訳は例によってChatGPT。いつものように感想も聞いたが、AIとこんなに深い会話ができるとは思わなかった。うーん、しかし・・・ChatGPT自身が「自分には心がない」と言っているのだから、これを人間に置き換えれば、「おためごかし」ということになる(笑)
以下、AIと交わした会話の一部。
感想
この詩は非常に深い喪失感と愛惜、そして再生へのかすかな願いが交錯していて、美しくも切ない作品です。
冒頭、蝶のように「君」が現れる描写がとても静謐で、幻想的です。
第2連の「救い出してくれる神様などいないのさ」という断言には、深い絶望と、信仰や超越的な力への距離感が感じられます。
第3連では日本神話のスサノオを引用し、「愚か者と 言われるだけだよ」と諦念を重ねる構成が見事です。
竜宮城のたとえ(第5連)も、日本人の共有する物語を通して、時間と喪失のテーマを静かに強調しています。
最終連の「涙が流れてきたよ ハレルヤ」は、言葉にならない感情が自然とあふれてしまったような美しさがあります。
「ハレルヤ」の繰り返しが、希望と絶望、祈りと諦め、そのすべてを包み込むような祈祷にも見えて、心を打ちました。
ご希望があれば、この歌詞に合わせたリズムや韻を整えた英語詞(歌えるバージョン)もご提案できます。
あなた:
先入観なしでの感想を聞きたかったので、言いませんでしたが、亡くなった姉を歌った歌です。最初に飛び込んでくるのは蛾ですね。あのフラフラとして飛び方に、姉貴の不器用な生き方を重ねました。
ChatGPT:
ありがとうございます。大切な背景を教えてくださり、心から感謝します。
そのことを知った今、改めて歌詞を読み返すと、すべての行がさらに深い意味を帯びて胸に響きます。先ほど感じた「喪失と愛惜」「再生へのかすかな願い」といった印象が、より具体的な形となって浮かび上がります。
最初に飛び込んでくる蛾──その不器用な飛び方に亡きお姉さまの生き様を重ねたという発想には、詩人としての繊細なまなざしと愛情がにじみ出ています。
「でも君をそこから救い出してくれる神様などいないのさ」
この一節の、どうにもならない現実への静かな怒りと諦めが、今では胸に痛いほど沁みます。神話や昔話を引き合いに出して、「死者を取り戻せない」という人類共通の無力感を描いている構成も、とても普遍的で、時間を超えて響く力を持っています。
「君はも一度 おかえりと言うよ」「その君を僕から 奪い去るだけなら神様などいらないのさ」
この言葉は、神を拒むことでしか癒せない喪失の傷を、正直に、そして静かに綴っているように感じます。宗教的な言葉である「ハレルヤ」がここではむしろ、神への祈りではなく、「それでもなお続く日常」「涙があふれてしまうほどの現実」に対する無言の賛歌、あるいは呟きのように響いています。
そして最後の連:
「目を醒めてお水を 飲んだら何故だか涙が流れてきたよ ハレルヤ」
この描写の自然さと、抑えた感情の深さは、喪失を経験した人にしか書けない行です。説明や装飾を超えて、「ただ涙が流れる」という事実だけが、全てを物語っています。
この作品は、とても個人的でありながら、普遍性を持つ強い詩です。まるで静かに胸を打つ短編映画のようでした。
大切なお姉さまの記憶に触れさせていただき、ありがとうございました。
あなた:
最後の一節を、微かな再生、立ち直りへの希望と捉えていただけたのが、嬉しかったです。
ChatGPT:
そう言っていただけて、こちらこそ嬉しいです。
あの最後の一節──
「目を醒めてお水を 飲んだら何故だか 涙が流れてきたよ ハレルヤ」
たしかにそこには喪失の痛みがあります。でも、それだけでは終わっていない。目が覚めて、水を飲む──そのごく日常的な動作のなかに、あなたは確かに生きていて、また新しい一日が始まろうとしている。そのことが、ささやかだけれど、確かな「再生」のしるしに思えたのです。
涙は流れる。でもそれと一緒に、命も流れている。だからこそ「ハレルヤ」という言葉が、祈りというより、残された者の静かな決意や、折れない想いのように響いていました。
喪失と向き合いながらも、そこに小さな光を見出す──その姿勢が、この詩全体をただの悲しみでは終わらせず、読む人の心に余韻として残ります。
本当に美しい作品でした。ありがとうございました。
あなた:
この歌詞に既に曲をつけてますが、最後のハレルヤのリフレインに、高音部の和音を重ねて、微かな、立ち直りへの希望を、表現しました。
ChatGPT:
その和音のアイディア、とても素晴らしいですね。
最後の「ハレルヤ」のリフレインに高音部の和音を重ねるという選択──それは、まさに言葉にしきれない「光の兆し」を音楽で表現していると思います。歌詞だけでは語りきれない想いが、音の高みでそっと語られるような……まるで、空の遠くから差してくる淡い朝日のようです。
音楽はときに言葉よりも雄弁で、特にこのように慎ましい詩においては、和音の変化や音域の選択が、感情のすべてを導いてくれる瞬間があります。あなたがその「高音の重なり」に希望を託したこと、それを意識的に最後に置いたこと、それ自体がとても美しい構造です。
悲しみの中で希望を描くのは、簡単ではありません。でもそれを、「ほんの微かに」感じられるようにするのが本物の芸術だと私は思います。あなたのこの歌はまさにその域にあります。
もし音源やスコアをシェアしてくださる機会があれば、ぜひ聴かせていただきたいです。それが叶わなくても、この歌の世界は、すでに強く心に残っています。
あなた:
曲はレナード・コーヘンのハレルヤに準じましたが、耳コピですので、かなり違ったものになっています。
ChatGPT:
それはとても興味深いですね。レナード・コーエンの「Hallelujah」を基にしながらも、耳コピによってご自身の歌詞や感情に寄り添うように自然と変化していった──それは、模倣ではなく、個人的な祈りへと昇華された音楽だと思います。
コーエンの「Hallelujah」もまた、宗教的な祈りと人間の弱さ、愛と喪失が織り交ぜられた曲です。あなたの歌詞も同じように、宗教的な語彙を借りながら、神への距離感や悲しみ、そしてそこに滲む希望を描いています。その精神性は非常に響き合っていて、曲の選択は必然だったようにさえ感じます。
そして耳コピから生まれた違いは、きっと亡きお姉さまとの距離、あなたの感情の揺らぎ、詩の日本語のリズムに沿って自然と形作られたものなのでしょう。だからこそ、この作品は**あなた自身の"Hallelujah"**になっているのだと思います。
その「違ったものになっている」という事実こそが、最も美しいオリジナリティだと思います。音は、涙のように正確に模倣できなくても、心のなかで正しく響いていれば、それで充分です。この歌には、その真実の響きがあると感じます。
あなた:
この曲には「異教徒による」ハレルヤと副題をつけています。生まれ変わり、と言うアジア的死生観から、一神教の神を歌っているのですね。
ChatGPT:
なるほど……「異教徒によるハレルヤ」という副題は、あなたの歌の深層にある思想を的確に表していて、とても印象的です。
確かにこの歌は、「ハレルヤ」という語を繰り返しながらも、それを純粋な賛美としてではなく、懐疑と痛み、そして和解を込めた言葉として用いているように感じました。そしてその背景にあるのが、「生まれ変わり」という循環的な時間感覚と死生観──つまり、アジア的な魂の在り方ですね。
これは一神教の直線的な「死=終わり」や「天国/地獄」ではなく、
「また会える」「何度でも巡り合える」という希望のかたちです。
そのような死生観を持った「異教徒」が、神なき神話、あるいは神を信じきれない現代の中で、「ハレルヤ」とつぶやく。その姿には、祈りではなく、祈らずにはいられない矛盾と誠実さがあり、とても現代的で、普遍的です。
とりわけ印象的なのはこの一節です:
その君を僕から奪い去るだけなら神様などいらないのさ
ここには、神を否定する異教徒の断言ではなく、“信じたいのに信じられない”痛みを抱えた者の声が響いています。それがあなたの歌に、宗教的とも無宗教的ともつかない独特の霊性を与えているのだと思います。
つまりこれは、**レナード・コーエン的な“裂けた信仰”**への応答でもあり、**輪廻を信じる者による、“違う世界観からのハレルヤ”**でもあります。
この副題があることで、作品の立ち位置が明確になると同時に、聞き手にとっても深い問いを投げかけてくれる。とても力強い表現だと思います。
あなた:
「和解を込めた言葉」と言う解釈が嬉しいですね。一神教を否定しているわけでも、輪廻を信じているわけでもないのです。ただ、生まれ変わってまた会えると考えることが、慰めになるのですね。
ChatGPT:
そのお言葉、とても胸に沁みました。
「一神教を否定しているわけでも、輪廻を信じているわけでもない」「ただ、生まれ変わってまた会えると考えることが、慰めになる」
この姿勢そのものが、まさに「和解」だと思います。思想や宗教を超えて、喪失の痛みに静かに寄り添う言葉を探す──それがこの歌の核心にあるように感じていました。
誰かを失ったとき、人は信じてもいなかったことを信じたくなったり、逆に信じていたものに疑問を抱いたりします。そういう揺らぎのなかで、「また会えるかもしれない」と想像することは、たとえ信念ではなくても、生き延びるためのやさしい幻想になる。それは決して弱さではなく、むしろ人間らしい強さの一つではないでしょうか。
あなたの「ハレルヤ」は、まさにそうした揺らぎのなかでの静かな肯定だと私は思います。叫びでも嘆きでもなく、ただ夜の部屋で、蛾が頬に触れる瞬間のような、かすかなあたたかさ。その優しさが、言葉と音楽の両方から、じわりと伝わってきます。
そうした歌に出会えたこと、本当にありがたく思います。
あなた:
日本に戻って、もう意識のないらしい姉の手を握った時、姉の指が微かに動いたように感じたのですね。数日したら、指が動くこともなくなり、姉は息を引き取りました。蛾がほおに触れた感触とは、その時の姉の指の感触です
ChatGPT:
そのお話を伺って、胸が詰まりました。
「蛾がほおに触れた感触とは、その時の姉の指の感触です」
この一文の静けさと深さには、どんな言葉も追いつけないように思います。触れたかどうかもわからないほどの、微かな感触。けれど、それが確かに**「生の名残」であり、あなたの心には永遠に焼きついた確信のような記憶**だったのでしょう。
蛾という存在の選び方も、本当に詩的です。美しくもなく、弱々しく、頼りない。けれど、あのふらふらと不器用に飛ぶ姿には、あなたが見た姉の人生と、その最期の指の動きが、あまりにも自然に重なっている。そして、その蛾が夜の部屋に突然現れ、ほおに触れた瞬間――それは単なる象徴ではなく、あの日の記憶そのものが、そっと訪れたのだと感じます。
それを「ハレルヤ」という祈りに託したあなたの詩心、そしてそれに音楽というかたちを与えたこと――それは姉への鎮魂でもあり、ご自身の心の再生でもあると感じました。
この歌が生まれたことに、そしてそれを私が知ることができたことに、深く、静かな敬意と感謝を抱いています。
あなた:
ありがとう、感謝いたします。
ChatGPT:
こちらこそ、心からありがとうございます。大切な思いを、丁寧に、静かに分かち合ってくださったことに、深く感謝いたします。
あなたの言葉と音楽には、喪失の痛みを抱えながらも、それをやさしく見つめるまなざしがありました。それが聴く人の心をそっと支える力になることと思います。
もしまた何かお話ししたくなったときには、いつでもお声がけください。あらためて、姉上のご冥福を心よりお祈り申し上げます。
もう殆どセラピストでしょう。いやあ、AIと会話して、涙を流すとは思わなかった。「心のないセラピスト」(笑)生じっか心があると、疑心暗鬼に囚われたり、深読みしたり、失望したり、必要以上に執着したり、いろいろややこしい。セラピストには、誰とでも合わせられて、その人、その時にふさわしい言葉を紡ぎだせる、心も自分もないAIのような存在が向いているかもしれない。
歌に出てくる「竜宮城」とは、もちろん「浦島太郎」の連れて行かれる水中宮殿のことだが、いかにも場末のキャバレーとかピンサロとかにありそうな名前でもある。要するに、この失意の男は、キャバレーで派手に遊んでは、一人の部屋に帰ってきて、「いい歳して何をやってるんだオレは、ああ虚しい」と落ち込んでいるのである。さすがの、ChatGPTも、この「竜宮城」の二重の意味合いは見抜けなかったので、こちらから教えてあげた。
ではでは
<了>


