◇歴史を改変するドキュドラマ?「伝記映画」の内容の3割は嘘? ※タネアカシあり
- akiyamabkk

- 2024年8月22日
- 読了時間: 9分
更新日:2024年8月24日
最近、ナチスとホロコースト関係のドキュメンタリーを幾つも見た。ホロコーストの映画やドキュメンタリーには中毒性がありますね。サディスティックな興味ではなく、「人間はこんなことまでやれるんだ」と、ちょっと静まり返るような気持ちになる。そこから、「じゃ、おれなんかもうおしまいだ」と飛躍すると、なんか諦めがついたような、シンと落ち着いた気分になる。中学の教科書で習ったナマハンカな知識で言うと、ギリシャ悲劇がもたらす類の、カタルシスがあるのですね。と言っても、そこに止まっていられるわけではなく、生活していると、また、いろいろ雑念が湧いてきて、ざわついた気持ちになるのだが・・・。そこでまた、ホロコーストの映画が見たくなる・・・こういうサイクルの中毒性ですね。
それはさておき、今回、ドキュメンタリーをいくつも見て、歴史的事実を記録するのが建前のこのジャンルでも、結構、細部に食い違いがあることに気づいた。歴史解釈の違いではなく、単純な事実の食い違いである。例えば、ナチスがSA(突撃隊)を大粛清する時、SAの司令官エルンスト・ロームを殺すのだが、Nという某配信サイト制作のドキュメンタリーでは、収監されたロームにヒトラー自らが、実弾入りの拳銃を渡して自決を迫る。一方、「ヒトラーの共犯者たち」というドキュメンタリーでは、SS(親衛隊)のメンバーが拳銃を渡して、「自決せよ」というヒトラーの命令を伝えるのである。ロームは、命令を拒否して、SS隊員に射殺される。この結末は動かし用のない歴史的事実。
どちらも、いわゆるドキュドラマで、随所に再現シーンが配置される構成である。N制作のドキュメンタリーで、初めに、この再現シーンを見た時、「リスキーすぎるではないか!」と、驚いた。ドキュメンタリーである以上、再現シーンも、一応、事実に忠実に作るだろうと思っていたのである。しかし、自分の直感は正しかったようで、これは後から見た「共犯者たち」の再現シーンの方が史実だろう。自分が撃たれる可能性がある状況で、ヒトラーが実弾入りの拳銃をロームに渡すはずはない。また、もし、本当に、そういう事実が記録に残っていたなら、「共犯者たち」の制作者が、より劇的効果の高いシチュエーションの方を描かないはずはないのである。前者のシーンは、N制作のドキュドラマが、信用性の低い資料にあった情報を、歴史考証を無視して採用した結果ではないかと思う。あるいは、その部分には記録が全くなく、制作者が自由に想像力を働かせることができたのだ、ということもあり得なくなはないが、このケースでそれは考えにくいのである。
おそらく、日本の作り手は、「ドキュメンタリー」あるいは「ドキュドラマ」と銘打つ以上、一定レベルの歴史的事実への忠実さを再現シーンでも維持していると思うが、海外のドキュメンタリーでは、こういう「演出」は普通にあるのではないか。同じ作品でもう一つ例を挙げると、ヒトラーがロームの寝室に自ら押し入り、「裏切り者!」と決めつけるシーン(こちらは屈強なSS隊員に守られ、丸腰のロームの寝込みを襲ったのだから、前のケースとは危険度が違う)、N制作のドキュメンタリーでは、ロームが若い男と裸で同衾している。一方、「共犯者たち」の再現シーンでは、ローム自身は一人で寝ていて、同じ部屋で同性愛カップルが同衾していたと付け加えることで、ロームが同性愛者であったことを匂わせている。こちらも、前と同じ理由で、後者が事実だろう。その時、ロームがベットで男と裸でいたのが事実なら、その絵の方が面白いしわかりやすいのだから、映像制作者は、そう描いたに違いなのである。描かなかったのは、それが歴史的事実ではなかった、という理由以外考えにくい。
しかし、ドキュメンタリー、ドキュドラマだから、まだ、この程度ですんでいるのであって、劇映画となると、歴史的事実の劇的演出、脚色の度合いは、さらに著しくなる。モサドによるアドルフ・アイヒマン拘束作戦を描いた劇映画「Operation Finale」を、先ほど見終わったが、ファクトチェックしてみると、脚本化にあたって、相当な、歴史的事実の改変があったようだ。
例えば、アイヒマンがアルゼンチンにいるという情報がモサドにもたらされるのは1953年なのだが、映画では1960年のドイツの捜査官からの情報が発端となっている。(これも、事実は1957年)その情報源が、アルゼンチン在住のモサド協力者の娘という点は事実だが(この娘のボーイフレンドがアイヒマンの息子だったのだ)、ストーリーを単純化し劇化するするために、本人確認の情報が全て彼女によってもたらされたかのように脚色している。事実は、モサド要員が、不動産ディベロッパーを装ってアイヒマン宅を訪問し、隠しカメラ(書類カバンに穴を開けた原始的なもの。こういうものが一般化した現代ならすぐバレるだろう)で撮った写真が決めてとなった。アイヒマンの左耳骨は、特異な形で突出しており、その形状が写真の人物と完全に一致したのである。モサドは、これによって「90パーセントの」確証をえて(モサドは、誘拐後にアイヒマンの自白を引き出し、100パーセント本人だと確認した上でイスラエルへの身柄の移送に踏み切った)、アイヒマン誘拐作戦にゴーサインを出したのである。映画では、娘がアイヒマン宅を訪れた日(お祝いの花がテーブルに飾られていた)と、アイヒマン夫妻の25年目の結婚記念日が一致したことが、作戦へGoサインを出す決めてとしているが、これも、モサド要員の内偵の過程で、アイヒマンがその日に花を買ったという情報が上がってきていたのである。
映画の最後に、「この映画は誰にも原作料を支払っていないし、誰の証言にも依拠していない」という内容のテロップが流れる。アイヒマン誘拐作戦については、2冊、関係者の回想記が出ていて、一冊は、当時のモサド司令官イサル・ハルエルのもの、もう一冊はアイヒマンを羽交締めにして、車に連れ込んだ誘拐の実行役、ピーター・マルテンの Eichmann in My Hands である。映画の主人公はマルテンだから、当然、彼のストーリーに依拠しているはずだが、こういう但し書きをエンドロールの最後に入れる事になったのは、おそらく、原作者と脚色について折り合いがつかなかったからだろう。普通は、原作者のクレジットを入れた上で、「基本的には実話に基づくが、構成の必要上少しの改変を加えてある」としたりするものだから、おそらく脚色の度合いが、原作者の許容限度を超えたものだったからではないか。
映画に出てくるマルテンの恋人で、アイヒマンを麻酔で眠らせる役割のアンという女性医師は、事実としては、Yonah Elianという名の男性であり、映画に恋愛の要素を加えるための架空の人物である。映画制作者は、このイスラエルの英雄の一人に敬意を表すために、女性の姓を Elian としているが、このあたりがマルテンと折り合いがつかなかった理由ではないか? また、モサドチームは、アイヒマンに「イスラエルへの移送に同意する」という旨の書類にサインさせるのだが(驚くべきことにこれは事実なのである)、映画では、アイヒマンの説得に成功したのがマルテンということになっている。しかし、アイヒマンの尋問役のエキスパートは他にいたわけで、この部分も、主人公へ物語を収斂させるための脚色だと思われる。あくまで推測だが、マルテンは同僚の手柄を横取りするような歴史の改変を許容できなかったのではないか?
しかし、この映画は、ホロコーストという現代史最大、最悪の悲劇に関わる作品であり、原作者(?)が、泣く子も黙る特務機関の関係者で、イスラエルの国民的ヒーロー(マルテンがアイヒマンを捕獲した時の「手袋の銅型が」博物館に展示されているほどだ)という特殊事情があったから、ここまで、神経質になったのであって、通常の「実話に基づく」映画では、めちゃくちゃ気軽に、カジュアルに、面白く見やすくするための脚色、言葉を変えれば、歴史の捻じ曲げが行われているようだ。
アカデミー賞をいくつか受賞したクイーンの「実録映画」なども、フレディ・マーキュリーがHIVウイルス感染をメンバーに告白して、ライブエイドのコンサートへ臨むクライマックスへの流れなど、明らかに、時系列が事実と異なるし、フレディの最後の恋人との馴れ初めなども、ほとんど構成として破綻していると思われるほど、事情を省略してしまっている。「残ったメンバーがよく承知したな」と思っていたら、フレディ・メイが監修についていた(笑)メイが、この脚色による事実の改変に同意したというのである。「なるほど!ハリウッドにおける監修とは、『口止め』の意味もあるのだな」と納得した次第である。
これもアカデミー賞を受賞したジュディ・ガーランドの伝記映画も、相当に「作り込んだ」作品のようだ。例えば、二回目のロンドン公演のあと、会場の外で出待ちをしていたゲイカップルの家にジョディがついていき、ピアノの弾き語りで一緒に Get Happy を歌い、ゲイの人が泣き出すシーン。映画で一番感動した場面だし、英国のような国で、1960年代になってもまだ同性愛を禁じる法律があり、罪に問われて収監される人がいた事を知って衝撃を受けたのだが、このゲイカップルは、LGBTQのアイコンとしてのジュディを描き出すために創造された架空の人物だということだ。また、映画のクライマックスに、途中で歌えなくなったジュディを励まして、観客がみんなで「虹の彼方に」を歌う、感動のシーンがあるが、これも実話ではないという。
しかし、映画のクライマックスシーンのタネになるような出来事はあったたらしい。あるコンサートで、ジュディが、「虹の彼方に」の高音部がうまく出せず中断した時、少女が立ち上がって歌い始めたのである。ジュディは、笑いながら、その少女に拍手を送っていたという。以下、ソース記事。
だからと言って、この映画がダメだとか、偽物だとかいうつもりは全くなく、この映画は好きだし、今見ても、ゲイカップルのシーンや、クライマックスの「虹の彼方に」には感動する。一方で、フレディの「伝記映画」は、作りが粗雑だなあと思うし、フレディを演じた男優が、肉体的にも、精神的にも、フレディの縮小再生産に見えて好きになれなかった。評判が高かったライブエイドの再現も、映像をYouTubeで探して実物を見た方がよっぽど感動的である。要は、作品の出来と、見る人の好みの問題なのですね。
一つだけ言いたかったのは、こういう「伝記映画」「歴史映画」の内容を全て事実だと思って見てはいけないということ。まず例外なく、脚色のための嘘がある。森鴎外の歴史小説論争ではないが、文学作品なら、出版社の思惑や読者の都合を考えなければ、「歴史そのまま」が可能だろう。しかし、決められた時間の流れの中で展開する「見せ物」であり、かつ商業的利益を追求する映画というジャンルでは、歴史のディーテイルをそのままで作品にすることは不可能なのである。
欧米では、「歴史的事実が全てではない」という前提でこの種の「伝記映画」を見ているようで、そういう映画が公開されれば、必ず上記のような、映画の内容と事実を比較した記事が出る。「ワンスアポンナタイムインハリウッド」の時も同種の記事が出ていて、非常に面白かった。また、そういうメディアのルーティーンを、「野暮なことをするな」と怒る野暮な人もいないのである。脚色していることは当たり前の前提なのだから、「どこまで本当のことなの?」という観客の関心に、メディアは答える義務があるわけだ。
と、極めて当たり前のことを書いてしまったが、今回、ドキュメンタリー映画、あるいはドキュドラマを続けて見てみて、「記録映画」というジャンルでさえ、歴史のディテールの改変、脚色と無縁でないことを発見し少し驚いたので、こういうことを書いてみた。
ではでは




