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ドキュメンタリー「普通の人たち〜忘れられたホロコースト」ORDINARY MEN - The "Forgotten Holocaust" ・・・映画感想文

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2024年9月7日
  • 読了時間: 3分


この間、ユダヤ人の「処刑」に従事する憲兵部隊のドキュメンタリーを見ました。アウシュビッツなどでのガス室による機械的殺人の前段階、ナチスは、集団銃殺によって200万人近くのユダヤ人を殺しているんですよね。「アインザッツグルッペン」と呼ばれる処刑部隊によるユダヤ人虐殺である。


その映画は、ハンブルグから「アインザッツグルッペン」として派遣されたある憲兵部隊をドキュメントしているのですが、隊員は、「任務」の内容を事前に説明され、拒否権を与えられているにもかかわらず、拒否したのほんの一握りで、ほとんどの隊員が任務を受け入れたのですね。拒否した隊員達は、軍法会議にもかけられず、炊事、洗濯などの雑務をさせられながら、任期を終えている。なぜ、大半の隊員達(その多くはリベラルな思想傾向の持ち主で、ワイマール的な社会民主主義の支持者も多かった)は、女、子供、赤ん坊まで殺す、非人間的な「任務」を拒否しなかったのか・・・というのがドキュメンタリーのテーマでした。


納得できる答えは見つからないのですが、私の印象としては、「集団圧力」というような大仰なものではなく、周りの人に対する、「義理の悪さ」「気兼ね」みたいなものから、拒否できなかったようなのです。「自分だけ嫌な任務から逃げて、仲間に負担を押し付けたくない」、あるいは「押しつていると思われたくない」というような・・・そういう卑近な人間関係への顧慮が優先されたようなのですね。


結局のところ、我々は、抽象的な「世界」の広がりのなかに生きているわけではなく、職場とか家庭とか隣近所とか、ごく狭い人間関係の中で生きているわけで、ああいう極限状態に置かれると、「赤ん坊を殺すこと」と「隣人への気兼ね」みたいな、倫理的には等価ではあり得ないことを、「ついつい」等価に位置づけてしまうのではないか、いわば習慣的にそうしてしまうんではないかと・・・。だって、そんな、突拍子もない選択を迫られたことは今までなかったでしょぅし、迫られると想像したこともなかったでしょうから、習慣的に身近な人への顧慮の方が優先されてしまった。・・・と、どうもそういう事のように思われました。


といっても、「処刑」を実行する隊員達にとっては、相当な精神的負担になったようで、「任務」を実行したあと、隊員達は、アルコールをふんだんに与えられ、酒浸りになって精神を麻痺させたそうです。そして、様々、奇妙な口実を作り出して自分の行為を正当化した。自分が一番衝撃を受けたのは、「自分は、赤ん坊だけを銃殺する。母親が死ねば、子供はいずれにしろ生きていけないから」という、ある憲兵の恐るべき論理でした。(「アインザッツグルッペン」の公式な処刑方針は、銃弾を節約するために、子供と、子供抱いた母親を1発で撃ち抜くというものだった)


ナチスドイツが、アウシュビッツのような施設を作ったのは、この「虐殺任務」による兵士の精神的荒廃が深刻になったことが理由の一つのようです。最近、「関心領域」という映画が評判になっているようですが、ああいうとんでもない事態が隣で進行していても、周りのみんなが知らぬふりをしている時に、何事もなかったように振る舞うことは、「任務による虐殺」を強制されるよりは簡単な事ではないかと思いました。ドイツ国民の「関心領域」を限定することが、ナチスの狙いだったのですね。


「関心領域」予告



ドキュメンタリーの終わり頃、「アインザッツグルッペン」の証拠を発掘し責任者を告発したユダヤ人の検察官は、アメリカメディア(CNN) から「彼はモンスターだったか?」と聞かれて、「普通の人間だった」と答えたことを語っています。そして「広島に原爆を投下したエノラゲイの搭乗員はモンスターでしたか?最終的な判断を下したのはトルーマンでしょ?」と問い返している。この言葉の思考の深さに衝撃を受けました。広島、長崎も「関心領域」の問題だったのである。


2024年9月1日

ではでは

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