top of page

◇もし映画「鉄道員(ぽっぽや)」が懐かしいドリフのコントだったら・・・

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2024年7月21日
  • 読了時間: 3分

更新日:2024年7月23日



この映画、見ていて恥ずかしいような気分になり、見るのをやめそうになったが、昔懐かしドリフのコントだと思って楽しめばよかったのかもしれない。「もし、高倉健が田舎駅の駅長だったら」みたいにコメディの題材として、映画そっちのけで、あれこれ想像して楽しむのである。


何かミスをするたびに「不器用ですから」と言って遠い目をするとか、いきなり感情的になって「死んでもらいます」と叫び懐から算盤を出す・・・とかその類のギャグ。要は、大時代な演技をする役者に小市民の役をやらせた時のギャップを笑うわけだ。最後は雪の中で死んでいるケンさんを部下が見つけて「やれやれ」という顔をした後、雪かきを続けるふりをして、高倉健駅長を再び埋めなおすのである。傍迷惑なのですな、小市民としては、重すぎて(笑) これはケンさんのせいではなく、企画と原作が悪いのだ。


こういうコントは幾らでもできるし、考えていると楽しい。例えば、「片岡千恵蔵がセヴンイレブンの店員だったら」「田中邦衛が話し方教室の先生だったら」とか、あるいは「西田敏行がぼったくりバーの呼び込みだったら」とか・・ミスキャストを想定して役者のキャラと状況との乖離で笑わせるわけだ。上にあげた例だと、最初の二つは単なるギャグだが、三つ目の西田敏行は、現実にこういうキャストをすることはあり得る。「ストーカー」でロビン・ウィリアムスが変質者を演じたように「善人キャラ→悪人キャラ」のギャップで悪役キャラに陰影と意外性を持たせるやり口である。


それまで役者が演じてきたイメージを、映画の登場人物の状況、性格設定に組み込んでしまうというやり方は、「善人・高倉健」の出発点だった「幸福の黄色いハンカチ」で山田洋次がやって大成功したものだ。この「鉄道員」も「黄色いハンカチ」の延長線上にある映画だろうが、「ちょっとやりすぎだろう・・・」というのが正直な感想。「一杯のかけそば」的な無理矢理感があるのだ。感動させようという意図が見えすぎて、わざとらしい感動の押し売りについていけない人間は、白けてしまうし、感動シーンが逆に滑稽に見えてしまう。思うに、感動させようという意図を露骨に見せないのが、日本映画のよき伝統ではなかったか。


高倉健と対照的なのが役所広司で、本当は小市民の役がハマる人なのに、偉い人の役ばかりやらされている。こちらはギャグになりにくいが、例えば、「役所広司が花札日本一の山本五十六だったら」とか「役所広司が長岡のゼレンスキー河井継之助だだったら」というのはどうだろう。やっぱりあんまり面白くないな、こりゃ。ゼレンスキーは河井継之助よりよっぽど現実的勝算があるわけだし。


ではでは


追記 ちょっと真面目に書くと、このキャッチコピーにも違和感がある。一人娘や最愛の妻を亡くすような状況なら、仕事は休んでいいの!サンドイッチマンではないが「ちょっと意味わかんない」滅私奉公である。そんなブラック労働、かっこいい事のように推奨しちゃダメでしょうに。第一、傍迷惑だろ、そんなことされたら。


ついでに、もう一つ、おそらく「鉄道員(ぽっぽや)」という題名には、高名なイタリア映画「鉄道員」へのオマージュが含まれているのだろうが、オリジナルの「鉄道員」は、労働者家庭の葛藤から悲劇的な和解までの日常を淡々と描いた名品で、滑稽かつ不自然な小市民英雄譚とは比較にならない。


ではでは 2

bottom of page