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あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史②~「初めての海外取材(二)17度線を越えた!」

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2021年7月4日
  • 読了時間: 9分

更新日:2024年5月11日


戦時下のハノイ 

※ハノイ―ホーチミン間は道路距離にしておよそ1600キロ、道がよくなった現在でも車で30時間はかかろうという道のりである。しかし、当日、鈴木さんたちの前に現れたのは頑丈そうだが年代もののソ連製のバスだった。


◇ハノイを出発


当日ホテルの前に我々のロケバスが現れた。30人位乗れる中型のバスである。ソ連製だと思われる。バスの後方にドラム缶2個ががっちり固定されていた。途中、ガソリンスタンドなどというものは無いので、出来るだけガソリンを積んでいかなければならない。無論ドラム缶2個ではホーチミンまではもたないので、どこかで補給する必要がある。


後になってわかったが、この石油の補給がまた大変である。省都にしかガソリンは貯蔵されていないので、ドライバーは夕食を食べる暇も惜しんで、外務省の許可書を持ってガソリンを補給しにゆく。省委員会の許可が出ても管理する役人が帰ってしまって鍵が開かず補給出来ないとか、結構時間がかかる。出発直前にようやく補給できる事もあった。


ホーチミンへ向かう道路は国道1号線、南北ベトナムを結ぶ大動脈である。ハノイ周辺は舗装されていて車も少なくスムーズに走る。道の両側は人家が続く。国道と平行して汽車が走る。蒸気機関車である。汽車は兎に角遅く、我々のバスが追い越してゆく。なぜなのか子供がバスに向かって小石を投げてくる。


車などほとんど走っていないためバスは中央を走る。時たま対向車があってもそのまま走り、直前でたがいにかわす。ヒヤヒヤする。道路の両サイドには木が植えられていて根本付近が白ペンキで塗られている。戦争中、夜間米軍の空爆を受けた時、上空から車の移動を察知されないように車のライトを消して走った。暗闇に浮き上がる白ペンキを目印にして車を走らせた、その名残だそうだ。



◇絨毯爆撃にさらられた街


ハノイからおよそ300キロ南下してヴィンについた。絨毯爆撃で徹底的に攻撃を受けたこの街は、瓦礫の山だった。ポツリポツリとコンクリートの建物は残っているが、ほどんと押しつぶさるように瓦礫となっていた。広島の原爆投下後の写真と似ていた。その後カメラマン時代に似たような風景に再度遭遇した。阪神大震災である。


神戸長田町を取材している時、どこかで見た光景だと思った。まさしくヴィンの風景だった

これだけ広範囲に爆撃されると多大な犠牲者が出たのではないかと想像できる。道路沿いは粗末な掘っ立て小屋が並び細々と商売をしてる。


置いてある品物は貧弱だ。30年近く戦争経済を強いられたため、民間の経済はほとんど育たなかった。国民は、米、野菜、布、等配給で生活をしていた。南北統一してまだ1年である。まだまだ一般庶民が必要とする物品が出回るのは先になるだろう。


宿舎は小委員会の建物であった。かろうじて残ったと思われる建物である。あちこちに砕けたコンクリートの山が残っている。


※鈴木さんたちは、翌朝ヴィンの街を出る。ここから南北の軍事境界線、いわゆる17度線までは100キロちょっとしかない。17度線は、第一次インドシナ戦争の停戦ラインであり、1954年、ジュネーブ協定により発効して以来、21年間、南北ベトナムを分断してきた。地理的境界をなすベンハイ川の両岸4キロメートルが非武装地帯となっていた。



◇17度線を越える

17度線。グレー部分が非武装地帯

17度線、1954年ジュネーブ協定で南北を分断した歴史的境界線(川)である。

南北それぞれ巨大な国旗をかかげアピールしていた場所だ。両側に巨大な国旗を掲げていた台座が見える。国旗を掲げていたポールが異様に大きく見えた。

よほど大きな国旗だったのだろう。川幅はそれほと大きくなく、橋は一車線であった。橋はそれほど損傷なくきれいだった。ここでそれぞれ対峙していたのかと思うほどのんびりしていた。多分緩衝地帯であったのだろう。この橋のたもとでレポートを撮影し新堀氏が橋を渡って南側に歩いて行くのを撮る。人々の行き来は多くなかった。21年間南北を分断してきた橋を、我々は5分とかからずに渡り終えた。南北縦断取材の前半のクライマックスはあっけなく終わった。



◇古都フエへ入る


17度線からさらに南下する。ここはもうかつての南ベトナムである。車窓から見ると、道路を歩く人々の服装に少しずつ色が付いてきた。100キロほど行くと、ベトナム最後王朝グェン朝の都フエに着く。


フエの街は活気に満ちていた。突然真っ白なアオザイを着た集団が現れる。学校帰りの学生だという。今まで白黒の世界が一瞬でカラーの世界に変わったような感覚だった。感動的だった。ベトナムに入って初めて人間が活動しているという光景に出会った気がする。街もザワツイていた。今まで自分が暮らしてた世界に戻ってきたような、何か安心感がある。ホテルの装飾にも色彩があり、街にも色彩があった。


久々にホテルらしいホテルに泊まる事が出来きた。ホテルの女性従業員のアオザイもカラフルである。笑顔があった。今までの宿泊所の夕食は一方的に決められた料理が出てきたが、

ようやく料理の選択が出来た。


フエの王宮に威厳は感じなかった。建物の作りもあまり見るものはなかった。ただ壁にめり込んだ銃弾の跡とか崩れ落ちた城壁とか ここで戦闘が繰り広げられてられたと思われる傷跡は至るところで見られた。


ここでも巨大な国旗掲揚台だけが目立った。街の中はかつて、この地で戦闘が行われていた事など忘れたかのように、商店も人々もうごめいていた。川をゆく小舟、道路の両サイドにそびえる巨木の街路地、派手な色の建物、ようやく人間の住んでいる街に来たと安堵した。



◇ファイバン峠を越えて


フエからダナンに移動するには山越えをしなければならない。たいした高低はないが難所だった。ファイバン峠である。南北を繋ぐ列車用にトンネルは掘られていた。しかし車、人の通行は出来ない。荷物を積んだトラックが列を作っている。ほとんどガラクタトラックのため速度が出ないのである。歩く速度と同じ位の走りである。中腹まで登ると通リすぎてきた町が見えてきた。    


通り過ぎる時は海がすぐ近くだということが分からなかったが、上から見ると遠浅の白い砂浜、ゆっくり打ち寄せる波紋 湾曲した入江、ヤシの木の緑と、まるで人工的に作られた様な風景、CM撮影が出来るのでは無いかと思うほど幻想的だった。今では大リゾート地になっていると聞く。


どの位かかったのかは分からないがようやく峠に着いた。峠には小さな店があった。峠の茶屋である。峠からダナンの街は見えなかったが、はるか下を黒い列車が走っているのが見えた。現在ならここで撮影であるが、当時は申請した場所以外では撮影は出来なかった。下りはスムーズである。故障するトラックも無く、山から吹き出る水で体を洗っている運ちゃんが見えたりしてのどかな風景である。



◇米海兵隊隊上陸の地・ダナンへ

ダナンに上陸する米海兵隊(1965)

ダナン市は突然現れた。グエンさんが「左側、あそこが米軍が上陸した海岸です」と説明する。それから30分も走らない内に突然ビル街が現れた。街には雑多なビルが立ち並び、人々はウヨウヨ歩きまわっていた。完全に東南アジアのざわめきである。バラバラな建物、色艶やかな看板、寝間着としか思えない薄着を着た女、怒鳴り合う人々、容赦なく照りつける太陽、みんな生きていると感じさせる街であった。


取材は、アメリカ軍が上陸した海岸線、復興する町並み等々。米軍が上陸した海岸には何も残っていなかった。そんなに綺麗な海岸線でもなく、水も綺麗ではなかった。米海兵隊の最初の部隊が上陸した歴史的な場所なのでレポートする。


街の様子も撮影する。撮影中スコップ等を持った集団がいた。我々が外国の取材団と知って、「ヘルプ ミー」と小さな声で訴えて来た者がいた。集団は、街をきれいにする奉仕団との事だったがたぶん強制労働だったのだろう。ただ「ヘルプ ミー」と言った男も顔に悲壮感は無かった。英語が通じるかどうか試した感じだった。


◇南トナムの街の印象


ダナンの街自体は、建物が爆撃によって破壊された様子は見られなかった。市街戦の銃弾の跡が残されているくらいだった。空爆があったわけでは無いので街全体は平和な感じだった。これは南ベトナムの街全般に言えることである。


この後クィニヨン、ニヤチャンに移動する。この間はあまり取材することも無くひたすら車に揺られていた。車はだいぶ増えてきたが、ドライバーは相変わらず道の真ん中を走り、すれ違う寸前で互いに対向車を避けていた。運転しているのは互いに元兵士だったのであろうから、お互い危険には慣れっこになっていたのだろう。


ニヤチャンは戦争当時、南ベトナムの重要都市だったのだろうが、フエ、ダナンと南の都市の雰囲気に慣れた目にはまた同じ様な都市に見えた。取材に関する記憶はあまりない。ただ宿泊したホテル?が海辺の近くにあり混んでいたことを覚えている。たぶん政府関係の人間が泊まる宿泊所だったのだろう。車が沢山止まっていた。


◇ファンティエットへ


翌朝出発の時間になっても車が来ない。ガソリンを補給に行っていたとの事。ガソリンの配給は許可書が無いと給油してもらえない。兎に角許可書が無いと移動も出来ない。まして撮影は、まず省委員会の事務所に行き認可をもらわないと撮影出来ない。


ようやく出発し、ファンティエットに向かう。途中米軍が補給基地としていたカムラン湾があるが、この場所はハノイで取材申請の時、重要軍事基地だからということで許可は出なかった。この間、国道一号線上は街も少なく、ただただ車に揺られるだけであった。途中、海岸線に近づくと、海岸が雪で覆われた様に白一色になった風景が現れ、太陽の反射を受けてキラキラ輝いた。この風景が何キロも続いている。トイレタイムで降りてよく見ると白砂の海岸だった。この砂はケイ素を含む砂でガラスの材料になると後で聞いた。


およそ一日かけてファンティエットに到着する。漁業の町らしく入り江に漁船が係留されているのが見える。今では有名なビーチリゾートになっているが、当時は、ただの漁村であっる。ホーチミンまであと200キロほどだ。ここまで来たら「明日はホーチミンに入れる」という期待と安心でスタッフ全員安堵の表情となる。宿泊場所は2階造りのアパートみたいな建物だった。ここも省委員会が押さえている建物だろう。


移動中どの街でも同じだったのだが、朝6時頃に突如ベトナム国歌が鳴り響き、朝のニュース放送が始まる。ラジオもテレビもあまり普及してないので、スピーカーが新政権の動静を伝える宣伝放送をやる。ファンティエットに泊まった時はそのスピーカーが寝室のすぐ近くにあり、大音響にびっくりして飛び起きてしまった。


◇ホーチミン入城


ファンティエットからホーチミン市の間は一号国道が内陸部に入ってゆく。徐々に街の様子が変化して来た。街の中にひときわ高く聳える教会が見えてくる。墓地に十字架が並んでいる。ジュネーブ協定が17度線でベトナムを分断した時、キリスト教徒や北の政治体制を嫌った住民が南下して住みついた街であろう。色とりどりの町並みは華やいで見えた。


道路は舗装されており車は本来の走りに戻ったようだ。窓から入ってくる風も安定してそよぎ続ける。ホーチミンが近づいてくると道幅はまむます広くなり高速道路では無いかと錯覚するほど快適になった。かつてのアメリカ軍のアイツー基地(※と呼んでいた。Infantry Two の略だろうか?)を過ぎると遠くに蜃気楼の様にホーチミン市の町並みが見えてきた。


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