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あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史④~「解放後のアンコールワットを初撮影」(前)

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2021年7月16日
  • 読了時間: 13分

更新日:2024年5月11日


アンコールワット 撮影 Bjørn Christian Tørrissen

1976年の南北ベトナム縦断取材、1979年ポト派虐殺政権崩壊後のカンボジア取材、などの経験を経て、鈴木幸男さんはカメラマンデビューを果たす。そして1981年、ホーチミンに赴任していた鈴木さんは、再びカンボジアを訪れ歴史的瞬間に立ち会う機会を得る。ポルポト派の支配下にあって長年立ち入ることができなかったアンコールワットに、解放後初めてテレビカメラが入る。その取材班のスチール係(写真撮影)を担当することになったのである。


◇カンボジアの取材規制が緩んだ


1979年のベトナム軍のカンボジア侵攻から1年あまり立った頃からカンボジア取材がかなり自由になった。ベトナム政府も最初の頃はカンボジア政府の体制づくりに四苦八苦していたがようやく少しずつカンボジア人に行政を任せる様になった。もちろん重要案件はベトナム顧問が押さえていた。特に軍事関係はベトナム軍の支配下であった。


この頃一番変わったのは、カンボジアに入るのにビザが必要になったことである。幸い小生が居たホーチミン市にはカンボジア大使館ができ、取材の申請で不可が出た事は無かった。

又、今まではベトナムから必ずベトナム外交部の人間が付き添っていたがそれも廃止された。ただ日本電波ニュースがカンボジア取材をする時はベトナム外務委員会に、日程、人数、取材地域を知らせていた。


これはもしもの場合を想定し、何かあれば安全を確保してもらう為である。この事が現実になった事が1回あった。シェムリアップでアンコール遺跡の取材をしている時、夜中に大砲の音が断続的に聞こえる時があった。我々が泊まっていた場所の対面にベトナム軍の陣地があり、そこが夜中に襲撃を受け反撃していたのである。銃撃線の音も大きくさすがにスタッフ一同不安を隠しきれなかったが、翌朝ベトナム軍のヘリが迎えにきた。さすがに取材続行はできなかった。


◇ビデオカメラの登場


1980年初頭日本電波ニュースにも変革の時期が来ていた。今までフイルム取材だったのがビデオカメラに変えざるえなくなっていた。日本の各テレビ局が急速にビデオに変わり始めたのである。丁度ハンディービデオカメラが出てきた時期である。池上、ソニー、ビクター、NECがハンデーカメラを販売し始め、当時は池上のカメラが最上と言われていた。日本電波ニュースも時代の流れには逆らうことが出来なかった。


最初に日本電波ニュースがビデを取材をしたのが、1979年TBSの番組でカンボジアに残してきた子供を探しにゆく番組 「細川ミチコ」である。この時電波ニュースにビデオカメラは無くTBSからカメラマン、ビデオエンジニアが来た。1日のレンタル料が30万円だった。この時を境に日本電波ニュースはビデオ化を進める。当時会社は資金的余裕が無く10000万もする池上とかソニーのカメラを購入するのは困難だった。そんな時出てきたのがビクターのカメラだった。価格が300万位と池上、ソニーの3/1の値段であった。


◇ビデオカメラとレコーダーは別だった!

当時はレコーダーを持ち歩いた(写真はBVU-110)

当時ビデオカメラとレコーダーは一体型では無く、収録にはレコーダーが別に必要だった。カメラとレコーダーをケーブルで繋ぎ、たえず2人が一緒に動かなければならなかった。レコーダは Uマッチク4/3テープを使用した。これも画期的だった。今まで収録は1インチテープを使用していたが、Uマッチク(カセット式)が出てきてワンタッチでテープの交換が出来るようになった。また録画した物をその場で再生出来る機能も付いていて現場で確認しながら取材を進める事が出来るようになった。


レコーダーはソニーだった。BVU100と呼ばれていたと思う。このBVU100は録画再生が出来る機能が付いていたが兎に角重い。しばらくして録画専用のBVU50が出てきてかなり軽量になったが、番組取材にはフイルド取材はBVU50、夜1日の取材確認にはBVU100と2台体制になった。


◇アンコールワット空撮に挑む!初めてのENG撮影


取材体制にも大きな変化があった。カメラマン、ビデオエンジニア、音声、予算がある番組はこれにライトマンが付いた。フイルムカメラ時代にはカメラ助手と言われたカメラマン見習いが無くなったのである。しかし当時の日本電波ニュースは資金的な余裕が無かったのでカメラマン希望者がレコーダーを担いでカメラの勉強をしていた。


日本電波ニュース初めてのENG取材は、日本テレビのアンコールワットの紹介である。電波ニュースからは、これまでPR映画などを手掛けていたエース監督が担当することになった。N氏である。この監督かなりユニークな人だった。兎に角服装に無頓着だった。ある時首にタオルを巻きつけて会社に出社してきた。そのタオルどうしたの?と聞くと、朝顔を洗ってそのまま出てきたしまったとの事。その格好で電車に乗ってきたのである。ただ先見の目はかなりあった。ヨーロッパの通貨統合とか日本の産業空洞化など80年代に話していた。事実、産業空同化の記録映画も制作したが、先読みが早すぎたため全然売れなかった。


レポーター件監修は石澤良昭氏である。1960年代からフランスのアンコール遺跡の研究に参加していた大学教授、後に上智大学の学長まで務めた人物である。


◇無人写真をスクープ


1970年から1980年の間アンコールの映像は世に出ることが少なくなっていた。ポルポト派がカンボジアを制圧し、西側諸国にはほとんどカンボジア国内の映像は流れなくなった。唯一、大使館発のプロパガンダ映像(水路作りの集団作業とか農村の風景)が雑誌などで見られた程度であった。


この間 画期的な映像が日本に流れた時があった。日本電波ニュースのスクープ写真である。だれも居ないプノンペンの街並み、高床式の家が異様なまでに整然と並んだ農村の風景など。これはラオス代表団がカンボジア訪問する時、ハノイ支局にいた石垣氏(日本電波ニュース4代目社長)がラオスの訪問団の中に知り合いを見つけスチールカメラを渡し撮影してもらったのである。


◇失敗した某新聞社「誰もいないことに意味はあった!」


日本に送られてきたスチールフイルムを現像し現れた風景は、首都からの強制移住、集団労働化など、今まで噂されていた事が事実である事が、カラー写真で綺麗に写し出されていた。日本電波ニュースは通常、記事も映像ニュースも契約各社に同時配信するのであるが、この時は各新聞社に個別にオファーをかけた。


最初の新聞社には 「誰も居ないプノンペン」ではと断られた。飛びついたのは毎日新聞である。その日の夕刊で1面全面で写真掲載された。その後各新聞社も慌てて連絡してきた。その時私の仕事はメッセンジャーである。


◇国道5号線でアンコールワットへ

本テレビの特番アンコールワット取材は、電波ニュースの精鋭を集めた集団だった。


私は当時ホーチミン市を拠点に取材しておりスチールカメラ担当だった。参加した時点で 写真集を作る事は聞いておらず、小生のカメラ機材は ニコンF2、35ミリレンズ1本だった。それも私物である。


アンコールのあるシュムリアップには当時まだ飛行機は飛んでおらず車移動となった。シュムリアップに行くのは6号線が近いのだが道が整備されていない(橋が落ちている)ため、そのころ陸路を行くものは5号線を使っていた。5号線はバッタンバン、シソポン、シュムリアップとトンレサップ湖を回るような道のりである。


◇人力シャワーで水浴び


通常ならば1日かからない道のりであるが、当時はまだ道が整備されておらず1泊2日の行程となった。もうもうと土煙を上げながら進む車で、我々は機材にホコリの侵入を防ぐ為ビニール袋で機材を包んだりビデオカメラは振動に弱いと言われていたので、膝の上に乗せて振動を軽減しながらと工夫しながら移動したものである。最初の宿泊地は村の村長の家だった。早速 Nデレクターが道中の埃を洗い流す為にシャワーを浴びに行った。一応木で囲まれた掘っ立て小屋であるが上から水が出るようになっていた。途中でNデレクターが頭を石鹸だらけで出てきた。水が出ないと叫んでいた。調べてみるとシャワー用タンクの水が無くなっていた。当時電気は無く自動的にポンプで水を上げる事など出来なかった。人力で水をタンクに上げなければならなかった。普通カンボジアの農村での水浴びは、川か溜池の水でする。家の中にシャワー部屋があっても室内に水瓶がありその水を柄杓で汲むようになっていた。一応上から水が出るようになっているのは金持ちの証である。泡だらけのデレクターの姿を見て皆で笑いこけた。


◇生気が戻ってきたカンボジア


バッタンバン シソポンに近づくにつれて、バイクに荷車をくくり付けた乗り物が多くなった。3メートル位ある荷車に、布地、生活用品を山と積んで移動している。その上に人間も乗っている。庶民の移動手段はこのバイク荷車か徒歩しかなかった。バッタンバン シソポンはタイ国境に出られる道があった。目ざとい人間がタイ国境に行き何もないカンボジアに荷物を運び込んでいるのである。1年前の 黒 黒の服装からかなりカラフルになってきている。特に女性は赤 オレンジ ピンクと南国の風景に合わせた派手な色合いが多くなっていた。バッタンバンではタイ国境から運びこまれた色々な物資が並んでいた。一種の問屋街になっていた。この当時まだカンボジア通貨は無くベトナム国境に近い省はドン、タイ国境に近い所はタイの通貨バーツが通用していたと思われる。しかし高額の金額のやり取りは、 「金」である。


◇男は信用できない?


解放後ベトナム顧問団は各役所を作る時 「男は信用出来ない」との事で女性が優先的に採用された。新聞局もかなりの女性職員がおり、ある時バッタンバンに取材に行く際に女性のガイドが付いた。取材が終わり、帰る時には車の中には、布地、生活用品が溢れていた。プノンペンの友達に頼まれたとの事。この時お金はどうしたと聞いたらバックから 金の小粒を取り出して見せてくれた。


当時、タイの繊維関係の業界が倒産の危機にあっていたがカンボジアに大量の布地が売れた事で復活したと聞いたことがある。カンボジアの人々は今まで鬱積していたものが一気に弾けるように鮮やかな布地を求めたのである。移動途中でも何台も荷台に満載した布地を積んだバイクリヤカーを見ることができた。カンボジア人民もたくましい者だと感心する。


◇アンコールワット到着


行程2目でアンコールのあるシエムリアップ到着する。道中アンコール遺跡群は見えずただただ水田地帯を砂ぼこりを上げて走った。唯一オープンしていたホテルはフランス統司時代に作られたと思われる外観をしていた。室内は天井が高く広々としていた。発電機があったのだろう夜だけ電気が来ていた。


翌朝 ホテル横の道をアンコールに向けて進む。鬱蒼と茂った大木の間の道を進むと正面に黒くシュルエット的にアンコールの姿が現れた。道はアンコールの堀に突き当たり堀沿いに左に曲がり堀に沿って進み正門である西参道にでる。かなり大きい規模である。なぜなのか正面入口が西側である。よって朝は5本ある尖塔(正面から見ると3本の尖塔しか見えない)

がシュルエットになる。西参道入り口からはまだアンコールワットの全貌は見えない。かなり長い参道を行きアンコールワットを囲っていた城壁を超えると突然全容が現れる。城壁の入り口の壁にも独特な彫刻が施され、異次元の世界に来たような感覚に襲われる。この門を入れ込みでアンコールワットを撮影すると丁度額縁に入った絵の様な構図になる


お濠越しに見たアンコールワット西面

この時はまだポルポトゲリラが出没していた為早朝の撮影出来なかったが、朝日が上がる時、この門の左側にあるテバダー(壁に掘られた女神の浮彫のこと)に光が当たり、輝くデバダとシュルエットになったアンコールワットの幻想的光景が現れる。朝露がある場合など、草の水玉がキラキラ光より一層幻想的になる。何年が後、再度訪れた時観光客用にアンコールワット日の出ツアーが行われていた。


城壁を超えると又長い参道が現れた。こちらの参道は西参道より破壊は無く両側に欄干が綺麗に並んでいた。一体どの様な人物が設計したのだろうか整然と作り上げられた建物は目をみはる物であった。これは空撮を行った時、より一層驚愕させられた。


◇ビデオ撮影開始、スチール撮影は楽し


番組制作班は早速撮影を始めた。石澤先生も久々のアンコールワットを見て感無量である。さっそくいろいろ説明を始めた。当時はレポーターが説明しながら現場を紹介してくとゆうスタイルではなく絵で実証してゆくスタイルが主流だった。よって石澤先生の説明を受け、どの様な絵を積み重ねていけば見ている人々に納得してもらえるかとゆうように撮影は進められた。兎に角十数年世間に出ていない映像である。現状を事細かく映像に収める事に最大の努力が払われた。だから撮影はなかなか進まなかった。

アンコールワット参道と西大門

私はスチール担当なのでその間自由に動く事が出来た。ロングショットは取材スタッフが目立たない様手前の遺跡で隠したり、逆方面を写したりしながら進んだ。石作りの参道なので照り返しは強烈だった。ただ建物の中に入るとひんやりしていて気持ち良かった。この頃は観光客も無く人払いをすることはなかった。時たま現地の人間が通りかかるぐらいである。


建物の大きさを表現するのに丁度よい構図である。アンコールワット本殿にたどり着く参道もかなり長かった。本殿前庭に池があり水がたたえられていた。本来は池の中央に橋の様にかけられていたと思われるが片方の池には水が無かった。もし両サイドに水があったらさぞ幻想的な風景だったろう。この時は現地の子供達が水浴びをしていた。本殿の撮影は全て飽きることの無い物だった。正面玄関の石畳、左右の彫刻、各回廊の物語風彫り物などなど。


◇当時は屋根がなかった回廊

乳海攪拌 撮影 鈴木幸男

第一回廊の西側部分は、夕方西日が落ちる寸前もっとも輝いて見える様になっていた。当時は全て金粉が施されていて普通でも輝いていたであろう彫り物が赤身をおびた斜光の光に浮かび上がった様はきっと「祇園精舎」に相違無いと思えたであろう。


兎に角見るもの全てが圧倒されるスケールであった。第一回廊 東南にある乳海攪拌の浮き彫りも見事である。当時は屋根の部分が崩れ落ち浮き彫りがよく見えた。しかし高名な回廊は早く修復され現在は薄暗い回廊になりあまり目立たなくなってしまった。回廊壁面にはそれぞれ違った物語がきざりこまれている。どれほどの時間を要したのか分からないが、第一回廊の東北側は下書きは書かれているが掘り出しには至っていない場所もある。一人の人間が描いたのであろうかこの広大なキャンバスに、もし一人の人間が下地を書いたとすればとてつもない芸術家である。この芸術家なかなか愛嬌がある。整然と行進する兵隊の中に1人だけ後ろを向いた顔を見つける事もある。


◇小さなモニターでプレビューしたため・・・


ビデオ取材班は、物語の登場人物、内容など「映像」で納得するように記録していった。戦闘場面でもチャンパ軍とクメール軍の違い等石澤先生の指導のもと細かく記録していった。撮影は汗だくであるが次から次へと新しい場面が登場してくるので飽きる事は無かった。

取材は日が落ちる前に必ず終了になった。まだポルポト軍がゲリラ攻撃をしていたのである。この時実際の戦闘は目にすることは無かったが遠くで散発的に打ち合う音は聞こえていた。


ホテルに帰って早速プレビューする。当時持ち込んだモニターは現在のスマホ画面位の大きさである。それを皆で覗き込みながら、綺麗に写っているかどうか確認する。綺麗に写っていた。これが後で大問題になるのだが当時は誰も気づいてはいなかった。


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