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あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史③~「初めての海外取材(三)ホーチミンに到着」

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2021年7月6日
  • 読了時間: 8分

更新日:2024年5月11日


ホーチミン市を流れる紅川(2018年撮影)

途中各所で取材しながらの道中であり、ハノイを出て一週間くらいはかかったと鈴木さんは回想する。一行はようやく、ホーチミンと名を変えた旧サイゴン市内に到着する。ホーチミン市には、アメリカの経済的バックアップを受け爛熟した資本主義を謳歌していたサイゴンの面影がまだ残っていた。


◇資本主義の大都会サイゴン


大都会の雰囲気である。1975年4月30日北ベトナム正規軍が戦車で押し込む中、最後の戦闘があったとされる「サイゴン橋」は思っていたより大きく長かった。当時の戦況の新聞記事では、橋を守っていた南の兵士が服を脱ぎ捨て逃げ出したと書かれている。橋の袂にはトーチカ、検問所が残っており当時の様子が垣間見える。

旧サイゴン市役所前(2018年撮影)

橋の上から見たサイゴンは大都会だった。サイゴン川そいに並んだビルはどこまでも続いていた。サイゴン中心部は、今まで見てきた町並みではでは見られなかった秩序が感じられた。レンガで作られた茶色の教会、郵便局、オペラハウス、ホテル、街路は大きな街路樹で覆われ、南国の強烈な光とマッチし、いかにもフランス人が計算して作りあげた町だなと感心する。


余談になるが、フランスは旧植民地に街と道を残したといわれる。まったくその通りだと思う。サイゴンもそうだがカンボジアのプノンペンも綺麗に整然と作られている。


別の番組でメコンデルタの空撮をした時、広大に広がる田んぼの中を真っ直ぐに水路が伸び、要所要所で放射状に水路が分離しているのを見たことがある。その模様がいかにも

幾何学的で美しかった。



◇外国プレスの拠点だったマジェスティックホテル


我々は街の中心にあるマジュステックホテルに到着した。このホテル、数々の歴史を刻んだホテルである。あの開高健氏も宿泊したことがある。サイゴン陥落前後各国のジャナリストがこのホテルに集まりそれぞれ自国に記事を伝送していた最前線である。解放戦線の砲撃で宿泊客のジャーナリストが負傷するというアクシデントにもあった。歴史的に重要な会議もここで開かれた。重要人物はホテル横にある専用エレベータで出入りが出来るようになっていた。


一歩中に入ると広々とした空間と高い天井、レセプション従業員のにこやかな笑顔、サイゴン時代の華やかさが残っている。女子従業員のアオザイも色とりどりでキラキラしていた。


今回の旅で初めて、ドアボーイと荷物を部屋まで運んでくれるサービス係に出会った。しかし北から付いてきたお目付け役の役人に 「南の人間は信用ならないから良く見張っているように」と注意された。



◇メニューのある食事


5階にあるレストランに入るとサイゴンの街並が一望できた。眼下にサイゴン川がゆったり蛇行し町並みが地平線まで埋まっていた。サイゴン川をはさんだ対岸はヤシの木が立ち並ぶジャングルだった。


ここから市内に向け砲撃していたのだという。しかし完全なジャングルでは無くちらほら家の屋根見える、人と自転車を載せたフェーリーも行き来している。穏やかな風景である。

久々のレストランでの食事である。フエ以来である。糊の効いた白い制服を着た年配のウエーターが注文を取っている。いかにもキビキビした仕事ぶりに、この道何十年と思われる誇りがにじみ出ていた。


メニューにロブスターテルミドールがあった。ロブスターなど日本で喰ったことも無かったが値段を見ると他の料理の値段とあまり変わらないので思い切ってたのんだ。もっとも自分が払うわけではないが、、、。


ビールもあった。33と書いてバーバービヤーと呼ぶビールである。メィンーンデッシュのロブスターテルミドールはかなり大きめのロブスターに、野菜、キノコ、ロブスターの肉を混ぜ込んで焼き上げたグラタン風であった。初めて食べたが美味しかったのでこの後何度か食する。



◇思い出のチャオトムとTorikamameshi

ベトナム式さつま揚げチャオトム(2018年撮影)

サイゴンに入ってからは朝食以外は街んのレストランを利用することが多くなった。日本料理屋は無かったが中華料理屋は沢山あり食事には苦労しなかった。なかでも、ベトナム式さつま揚げ、チャオトムと呼ばれる、エビのすり身をサトウキビに巻きつけて炭火で焼いた物が美味かった。いまでもベトナムに行くとこの2品は必ず食べる。これを食べるとベトナムに着た目的が終わったと安心する。


食い物でもう1品忘れないものがある。鳥釜飯である。当時マジュステックホテル前のサイゴン川に浮かぶ、船を利用した水上レストランがあった。そのレストランに鶏釜飯と書かれたメニューがあった。ベトナムの随行員も船上レストランの料理は知られていたらしく 「水上レストランに行きたい」と注文すると反対する者はいなかった。TORI KAMAMESHIと書かれていた料理は日本の釜飯そのものだった。素焼きの釜に鶏肉を始め色々な具を入れて

炊き上げたベトナム釜飯は日本の釜飯と同じ味がした。船の上でサイゴン川を渡る風にふかれ少し酸っぱいビールと釜飯食べながらゆったり過ごす時間は1日の疲れを忘れさせてくれた。


船甲板に作られたレストランは雨期に備えて、雨がちらほら降り出すと、天井に備え付けられた天幕が覆うように移動し雨をしのげる様になっていた。まだ戦争が終わって1年ほどしかたっていなかったので以前の物がほとんど残っていた。



◇ホーチミンでの取材のこと


サイゴン取材は取材申請した項目がほとんど可能だった。4/30日北ベトナム軍が正面ゲートを破って突入した大統領府、アメリカ大使館、市内撮影、中国人街のチョロン市場、ゲリラ活動の拠点だった地下都市クチ、南部の拠点ミト、元アメリカ軍の基地、戦没者の墓、日本企業の現在、等々結構満足のいく取材だと思うが、どうしても許可がでなかったのが、当時大統領府に戦車で1番乗りした戦車の乗組員とか、作戦に関わった要人のインタビューである。この後何回か日本のテレビ局と取材をしたがほとんど要人インタービュウーは許可されなかった。


今回の取材で、サイゴン侵攻時の生々しい痕跡は発見できなかった。大統領府の取材でも、正面ゲートを破って突入した戦車は敷地内に展示されていたが、正面ゲートの門は綺麗に修理されていた。室内の会議室も当時の物が再現されていたが、生々しさは感じられなかった。アメリカ大使館の屋上のへりポートも、写真で見た我先に乗り込もうとする人々の悲壮感を感じさせるものではなかった。あるがままを写すのみである。当時のイメージを思い出させる物も無い。もっとも1年前の事なのでしかたがない。


米軍のアイツー基地も、滑走路、建物等は残っているが、現在は牛が草をはぐくむのんびりした風景であった。ところどころに赤い布切れがまきつけられ棒が立てられていた。一応地雷が埋められている場所なので入らない様にとのことであった。1年たったがまだ地雷処理は出来ていないとゆう。



◇貧しい北、豊かな南


ビエンフォア工業団地内にあった日本の ヤンマーの組み立て工場では、若い技術者が「これからは安心して工場が操業出来る。今、農業用ポンプを作っているがこれからもベトナムの農業の発展の為ポンプを作り続ける」と自信満々に話していた。が、その後同じ工場を訪ねた時、同じ技術者が「どうしてもエンジン部分がうまく行かない。日本のヤンマーに技術援助をしてもらえないだろうか」と話しているのを聞くことになった。


この取材で北のハノイから南のホーチミンまで車で南下したが、明らかに北と南部は違っていた。何十年も戦争を戦っていた北ベトナムは貧しかった。それに比べ南ベトナムはアメリカの多大な援助で成り立ち一見華やかに見えた。北は国民全体で戦っていた。南はアメリカ軍が戦っていた。空爆も無かった。北ベトナムの国民は、自分たちの国は自分達ベトナム人自らの手で作ろうと戦かった。そして統一を成し遂げた。この事に他国の人間がとやかくいうことは無いのではなかろうかと思った。


◇「統一すれば」という幻想、甘くなかった経済再建

ホーチミン像の前で(2018年撮影)

ベトナム指導部は、ベトナム戦争が終わった後、「これからは戦争に使っていた力を国の再建の為に使う事が出来る。10倍も100倍も美しい国を作ろう」というスローガンを街中に掲げ、成し遂げる事が出来ると確信していただろう。しかしその後ソ連の社会主義生産様式を取り入れ、企業の国営化、農村のコルホーズ化など進めるが、うまく行かなっかった。

特に南部農村部のコルホーズ化は、大地主の大反発にあい、今まで南部では米が有り余っていたにも関わらず米不足が全国的に広まった。同時に1979年1月のカンボジア侵攻に対し西側諸国が経済封鎖に踏み切り、ベトナムは益々経済的に停滞してゆく。そして中越戦争、ボートピープルと益々、ネガティブな注目を世界から集める事になった。経済政策に行き詰まったベトナムは1986年、第6回共産党大会で資本主義経済を取り入れたドイモイ(刷新)政策を葉発表した。これが現在も進行中である。



◇取材を終えて


ホーチミン主席は 「人間の尊厳において独立と自由ほど尊いものは無い」と語り国民を南北統一の戦いに参加させた。300万人とも言われる犠牲者の上に成し遂げられた統一を見ることなくホーチミン主席は亡くなったが、現在でもベトナム国民は親しみを込めてホーおじさんと呼んでいる。


この取材でTBSのデレクター秋山氏、レポーターの新堀氏(故人)は、満足出来る取材では無かったかもしれないが、日本のテレビ局で初めて、日本国民に、統一後のベトナムの現状を伝える事が出来たことに意義があるのではないかと思う。


<了>

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