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あるTVカメラマンの(ベトナム)戦後史①~「初めての海外取材(一)、ハノイ到着」

  • 執筆者の写真: akiyamabkk
    akiyamabkk
  • 2021年7月2日
  • 読了時間: 10分

更新日:2024年5月11日


2003年イラク取材中の鈴木さん

◇初めての海外取材


※鈴木幸男さんは、1950年茨城県土浦市生まれ。高校卒業後、千代田テレビ技術専門学校の夜間部に学び、テレビカメラマンを目指す。1973年、日本電波ニュースの契約社員となり、助手としてカメラマン修業を始める。しかし、そのころの本職はまだバイクのメッセンジャーボーイだった。海外の支局から送られてきたニュース映像を、各テレビ局へバイクで配信する仕事である。1975年春、ベトナム軍のサイゴン入城近しと言われだすと、鈴木さんの仕事はにわかに忙しさを増す。


サイゴンが解放された1975年4月30日前後には、各テレビ局にフイルム配信と共に、新聞社にも記事配信しなけれならなかった。当時日本電波ニュースは、ハノイ支局と南下する北ベトナム軍に随行するカメラマンがおり、戦況状況を伝える記事、ニュースフイルムが随時届き始めた。記事はテレックス呼ばれる現在のインターネットの代わりみたいな物だが、当時唯一、文字を送信できる器械であった。しかしこのテレックスは、英語のみ対応で記事はローマ字送られてきた。これを日本語に書き直し各テレビ局、新聞社に直接届けるのである。多い時では1日3回もバイクで同じルートを回らなくてはなかった時もある。日本電波ニュースが輝ていた時期である。


社員に採用され、カメラ助手として修業を続ける鈴木さんに、1976年秋、大きなチャンスが訪れる。民放テレビのニュース特番「南北統一ベトナム縦断取材」に助手として同行することが決まったのである。西側世界では統一後初めての南北縦断取材だった。日本電波ニュースは、長期にわたってハノイ側からベトナム戦争を取材し、当時西側世界の北ベトナムへの唯一の窓口だった。その日本電波ニュースが、初めての統一ベトナム取材に一役かうのは自然な流れだった。



◇統一ベトナムの首都ハノイへ


1975年4/30 北ベトナム正規軍、サイゴン突入。この日をサイゴン解放と呼んでいる。1976年6月南北統一。国名を決める時、ベトナム社会主義共和国とするか、そこに民主を入れるかどうか揉めたらしい。結局、国名は「ベトナム社会主義共和国」となった。


1976年10月か11月頃だったと思う。日本のメデアで初めて統一ベトナム取材の許可が出る。TBSの報道番組だった。カメラクルーは、長年ベトナム戦争をハノイ側で取材してきた日本電波ニュースである。


カメラマンは藤井良考さん。北爆下もハノイでカメラを回し続けた強者である。そしてカメラマン助手は鈴木幸男。小生は、初めての飛行機、初めての海外取材である。デレクターは日本人で初めて宇宙に行った秋山寛治氏、レポーターは新堀俊明氏(故人)だった。


「冷たい戦争」の真っ最中。ベトナム戦争が終結して、まだ一年余りしかたっていない。成田ーハノイの直行便などあるはずもなく、取材クルーは、社会主義陣営内の国を縫うようにして、ハノイまで乗り着いていく必要があったのである。



◇ジャンボ機で羽田を発つ


当時、ベトナムの首都ハノイに入るには 中国北京経由か、ラオスのビエンチャン経由しかなかった。中国経由は、北京ー南寧ーハノイである。もうひとつはラオスのビエンチャン経由で、ソ連のアエロフロートが、モスクワーラングーンービエンチャンーハノイの不定期便で飛んでいた。こちらは社会主義国を乗り着いていくルートだ。


そのころネットなど無いのでビエンチャンのアエロフロートの事務所に行っても何時便があるか、又空席があるかわわからずという状態だった。(これは、後になってそういう経験をした。当時はまだ右も左もわからなかった。)中国とはすでに国交を回復していたので北京へは日航便が飛んでいた。我々は北京経由で行くことにした。北京から先は南寧経由でハノイである。


初めての海外取材の飛行機がジャンボ機だった。丁度翼の見える窓際に座る事が出来た。ジャンボ飛行機に最初印象は翼がデカイだった。滑走路に移動する飛行機の翼は少しタレ気味になっていた。やがて滑走路を滑り始めた飛行機は速度を増すと翼が徐々に、上にそり始めた。車輪のガタガタいう音がスーット消えた。とたん少し落下する感じになりながらふわ~とゆう感じで浮き上がっていた。思わずため息が出た。外を見ると翼はそり上がつて雲の中を上昇していた。



◇北京到着 社会主義国の第一印象


外が薄暗くなった頃北京空港に無事到着した。空港は薄暗かった。荷物検査には時間がかかった。兎にかく全て開けられ機材のトランクは封印された。針金でトランクを縛られ 封印の印が付けられてボンドである。


トランジットで空港宿泊所に案内された。かなり時間は立っていたと思うが初めての海外で気持ちが上ずっていたのか、あまり覚えていない。宿泊所も薄暗かったが食堂で夕食をとって1日目無事すぎた。この時の宿泊代、食事代は幾らだったのだろうか記憶に無い。たぶん無料であったろう。


〇南寧で昼食、感動の本格チャーハン


2日目北京から南寧に向かう。100人位乗れるプロペラ機だった。この機体がハノイに行くのか、南寧で空港に降りて休憩、昼食となった。空港の待合室は、ほとんどの乗客が南寧で降りたためガラーンとしていた。待合室では、乗客が自由に食事をしていいとゆう


私はここで初めて本物チャハンに出会った。どでかい釜が3つ位あり、それぞれが具材の違うパサパサのチャーハンであった。これが本場のチャハンかと感激したものである。それも無料。この当時の中国は飛行機を利用できるのは特権階級のみであるので、このようなサービスなされていたのであろうと思われる。



◇空から見たハノイ 田んぼの中のクレーター


昼食後、南寧を離陸してしばらくすると、眼下が山がちな風景から田園風景に変わる。ポツリ ポツリと集落が見える。田んぼの中に爆撃で出来た穴が見え始める。何発も落として行ったのだろう 穴はキレイに並んで水をたたえながらキラキラ光っていた。


田んぼの中に農村の集落が少しずつ増えてきた。徐々に高度を下げた飛行機の窓から茶色に染まった屋根の塊が見えてきた。ハノイだった。民家の屋根を滑るように飛行機は降りて行った。ガラーンとした飛行場だった。※ザーラム空港である。


この時の様子はあまり覚えていない。預けた荷物が間違いなく出てくるか確認作業に気を取られていた。この作業もカメラマン助士の重要な仕事である。


※ザーラム空港は、日本の占領時代ハノイ近郊に作られた軍事空港。当時、ベトナム人民空軍の基地があった。空港は紅川の東岸ロンビエン区にあり、鈴木さんたちクルーは、ロンビエン橋を渡ってハノイ中心部に入っていく。



◇ロンビエン橋を渡りハノイ市内に


空港の周りにはあまり民家を見られなかった。田園地帯の中の道を進んでゆくとハノイ市入り口の門に到着する。この先からハノイ市街だとゆう。映像や新聞記事で何度も見た風景が現れる。

現在のロンビエン橋

黒い鉄くずの橋、ロンビエン橋 米軍が何度も爆撃しただなかなか破壊できなかった、最終的にソニーのカメラを弾道に先に付けようやく成功したと言われる不屈の橋である。(噂社会ベトナムのあくまで噂だが)この橋は地方からハノイに入る唯一の橋なのでベトナムとしても最重要な橋であった。


最終的に米軍に落とされたが修復して、車、人間 列車が通行していた。大渋滞である。車窓から見る人々は黒のズボンに白のシャッツにノンを被っている。天秤棒を担いでいる者、自転車に満載に荷物を積んで運んでいる者、人々が溢れている。 車と人々の速度が同じである。ニュース等で見ていたが、これほど渋滞であるとはおもってもいなかった。ツギハギだらけの橋である。


橋を降りると 整然とした街並みが見えてきた。舗装された道と、大木が茂った街並、木々の根本付近は白ペンキで塗られていた。街全体は煤けて見えたが上空から見たよりしっかりした街並だった。



◇トンニャットホテル(統一ホテル)塞がれていた防空壕


ハノイの中心部に入る。道路はきれいだった。迎賓館、演劇場、デパート、郵便局 ホアンキエム湖、等集中している場所。


トンニャットホテルに到着。フランス時代に作られた建物である。窓が観音開き、回転ドア エレベーター付きで天井が高い。外国人はほどんどこのホテルに泊まる。サービス無し。荷物は全て自分たちで運ばなければならなかった。エレベーターは付いているものも動いてはいなかった。


ロビーの雰囲気は、フランスが作った建物であるためか「外国に来たー」という感じ。雰囲気は暗かった。部屋の中には天井から大きな扇風機がユラユラとゆっくり回っていた。日本電波ニュースの支局もこの中にあった。2部屋借りており片方が支局事務所になっていた。

トンニャットホテル地下の防空壕(ホテルHPより)

北爆の時、ジョーン・バエズやジェーン・フォンダが避難したトンニャトホテル食堂の防空壕、見たいと思っていたが塞がれていて中は見ることが出来なかった。この話は日本電波ニュース社の先輩、橋田信介さんから聞いた。イラクで亡くなったハシヤンは北爆下のハノイにいたのだ。


※鈴木さんの同僚、橋田信介さんは1972年特派員としてハノイに赴任、同年12月にハノイを訪問したジョーン・バエズ一行を取材している。米軍は、ジュネーブ協定違反のハノイ空爆を開始、バエズ達は「空爆が終わるまでハノイに残る」と宣言して、12日間、「人間の盾」としてハノイにとどまった。アメリカの空爆が始まる度に、バエズ達は、滞在していたこのホテルの防空壕に避難したという。橋田さんも、ホテル側に促され避難した一人だった。30年後、バクダッドで、橋田さんは再び米軍の空爆を経験することになる。その時の戦場取材の相棒が、この手記の筆者、鈴木幸男さんである。トンニャットホテルは現在、インターポールハノイと名前を変えて五つ星の高級ホテルに生まれ変わり、今年開業120周年を迎える。入り口を塞がれていた防空壕は10年前の改修工事の際に発見され、復元されて観光客に開放されている。



◇ハノイ取材、破壊された首都


ハノイ市内は建物自体がくすんでいる為全体的に暗い感じだった。取材は、ホーチミン廟、国会議事堂、米軍に絨毯爆撃されたカムチュエン通りなど今まで報道されていた所を取材。ホーチミン廟は、街中の雑踏とは違い、だだっぴろい広場の中に整然と建っていた。この後ろ側にかつてホーチミンが住んでいた建物がある。


カムチェン通りは、道路際はかろうじて建物は残っていたが、一歩中に入るときれいに一直線に潰された瓦礫の山だった。病院があった場所はどでかい穴ぼこに凹んでいた。人々の服装は、女性は黒いズボンに上着は白、男性はカーキ色の軍人スタイルであった。移動は今にも壊れそうな自転車か徒歩。天秤棒を担いだ人々が目立つ。なんとなくザワツイている。


ホテルの女性従業員はアオザイを着ていた。唯一 色のある世界である。ある時ホテルのバーのアオザイを着た綺麗な女性が顔を拭いてた。ニコニしながら同僚と話しながらふいているのであるが、その手ぬぐいが煮しめたような色をしていた。そのアンバランスに唖然とした。かなり生活用品が不足しているようだ。



◇ベトナム・日本混成チーム、ハノイ出発

ホーチミン廟の前の鈴木さん(2018年撮影)

同行の秋山ディレクター、新堀レポーターは、初めてのハノイに興奮を抑えきれないようだった。写真を撮りたそうだったが、市内には撮影禁止の場所も多く、いちいち同行の外務省職員に聞かなければならなかった。橋など撮ってしまえば大事である。ベトナム側からは、ボディガードのルオンと、通訳のグェン・クイクイ、それから名前は忘れたが、寡黙な大物風の雰囲気を漂わせている男、計三人。


ルオンは、道が混み始めると車を降りて「おい、外国のお客さんだ、通してくれ」と交通整理などをする役目、兼ボディーガード。グェンは、占領時代に日本語を独学したという50前後の男だが、日本語の発音がいささか聞き取りにくい。世話役と監視役を兼ねた人ベトナムチームのトップは「寡黙な大物風の男」で、同行の二人にあれこれ指示を出していた。


出発前に買い出しなどした記憶はない。買い出ししようにも物がなかった。「チュクパン」という名の酸味の強い地ビールは、この頃でも入手できたと思うが、出発前夜に出陣の乾杯をしたかどうかも覚えていない、みな、これからの取材への期待と不安で、儀式めいたとこをする余裕もなかったのだろう・・・


※ベトナム人側、お目付け役3人とドライバー計4人、日本人クルー4人の混成チームは、ハノイで数日間取材した後、サイゴンに向けて出発する。



<参考>


メトロポールハノイのHP


ローリングストーン誌「ジョーン・バエズ、空爆下の12日間」

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